偉大なポルノグラフィー-『ジョン・レノン対火星人』 part 2 「序章 ポルノグラフィー」
part 1 はこちら
こんばんは、味付け海苔です。
早速ですが、扉のところに、イタリアのマルチアーティスト、ブルーノ・ムナーリの言葉が引用されていますね。
もっと詳しいことを知りたい人は、十八時以降に電話をくれたまえ
(ブルーノ・ムナーリ)
俺がこれを書いているただいまの時間は、午前三時半です。
十八時以降と言えなくもないですね。ピ、ポ、パ、ポ、ピ。
プルルルル、プルルルル、プルルルル・・・・・・。
出ねえや。
はい。こういうのってだいたい最後まで読んでも意味わかんないパターン多いですけど、これはホントに意味わかんないですね。
ブルーノ・ムナーリはいったいこのセリフをどういう文脈で言ったのか。
それでは、序章です。パチパチ。
「ちょっとお待ちください。××はただ今、××中であらせられます」
(中略)
わたしのノートにはこんな断片がぎっしり詰まっている。もちろん、わたしがいつか書く予定の「偉大なポルノグラフィー」のためだ。
さて、こんなふうに、太字ゴシック体と明朝体のフォントが入り乱れております。
たぶんですが、ゴシック体の部分はノートの断片でしょうか。
金子光晴の目は遠い過去、生起した一切をながめていた。いちごちゃんも感動していた。
「光っちゃん」
金子光晴はまだ遠くをながめていた。
唐突に金子光晴が登場しました。金子光晴といえば昭和を代表する詩人の一人ですね。
「おっとせい」という作品が有名です。ちょっとだけ引用してみますね。
そのいきの臭えこと。
くちからむんと蒸れる、
そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬらしていること。
こんなふうに、おっとせいをケチョンケチョンにけなしていきます。
俺はこれを読むとCV.立川談志で脳内再生されます。(同じ人います?)
これは、体制をおっとせいに見立てて、それとなくバッシングしているわけですね。
「おっとせい」が収録されている詩集『鮫』の序文には、こう書かれています。
よほど腹の立つことか、軽蔑してやりたいことか、茶化してやりたいことがあつたときの他は今後も詩は作らないつもりです。
この反骨精神は、小説の雰囲気になにか通底するものがあるような感じがします。
金子光晴に続いて、ペンギン、風俗嬢、アブドーラ・ザ・ブッチャー、セールスマン、ヘンゼルとグレーテルの登場する断片が次々貼り付けられているんですが、内容がもう軒並みヒワイですね。
そりゃあまあ、ポルノグラフィーだから当然なんだけど、それにしてもひどい。
ヘンゼルとグレーテルの断片が特にひどい。もう笑えてくるくらいひどいですね。
これはひどい。全くひどい。ヒポコンデリイと分裂症と脱腸を併発した少女マンガ家のうわごとのようだ。
そういえば高橋さんってマンガ描くのうまいんですよね。お父さんは画家志望だったっていうし、芸術におけるポテンシャルが総合的に高いってことでしょうか。
わたしは、ほんとうに悲しい。わたしがこいつらをノートに書きつけた時には、たしかにこいつらは「偉大なポルノグラフィー」を形づくるモザイクの断片のはずだったのだ。おかしいな。どうしてこんなていたらくになってしまったのだろう?
文章書いた直後って、ゲシュタルト崩壊かなんかわからないけど、自分の文章の良し悪しがさっぱりわからなくなること、時々ありますよね。
後日読み返してみたら、思ってたより名文だったり、逆に、自分でも信じられないほどの悪文だったりする、あの現象。
深夜に文章書くとだいたいそうなるっていいますよね。
だからラブレターは朝に書くようにするといいとか。
でもラブレター書こうなんてクソ度胸って、深夜のテンションあればこそな気もするし、難しいとこですね。
さて、ダメ押しに「不思議の国のアリス」の断片が挿入された後、ママが電話をかけてきた、と。
余談だけど、高橋さんってリアルにお母さんのことママって呼んでらっしゃるんですって。講演会で言ってた。
なんかぶっ飛んでていいですね。
「もしもし、わたしがだれだかわかるかい?」
「ばばあの知り合いなんかいねえよ」
わたしのママは神さまに意地悪されたヨブのように怒り狂って悪態を吐きはじめた。もちろん、わたしは放っておいた。わたしのママは気のすむまで罵りつづけると、ぴたりと止んでしまうのだ。
聖書の話が出てきました。俺の得意分野です。えっへん。
ヨブっていうのは旧約聖書の、その名も『ヨブ記』に登場する人物です。
ヨブは、神さまと悪魔の賭けに巻き込まれて、さんざんひどい目に遭わされる遭わされた人です。
最初のうちはめっちゃ敬虔な人だったんですけど、悪性の腫瘍で体中かゆくされて、その一週間後くらいから呪いまくります。
でも、最後は悔い改めてハッピーエンド、みたいなお話です。
ええ、まあ、それだけです。
「そうそう、用事を忘れていたよ」
「なんですか?」
「あんた、小説家なの?」
「ええ、まあ」
「ほんとに?」
「ええ、まあ」
「ふうん。おまえもなかなかやるじゃん。ところで、今電話をとりついでくれた男の子はだあれ?」
「召使いです、ママ」
「ふうううん。おかねもちなのねえ。」
「ええ」
ホントににぴたりと止んだな。
あと、なんなんだろう、この乾いた会話は。
それからしばらくママのキャラクター描写が続きます。
わたしのママは日本で一番古い私立女子高フェリス女学院を戦争中に卒業し、現在は「エホバの証人」のパンフレット販売人、つまり、例の「魂のヤクルトおばさん」なのだ。
「魂のヤクルトおばさん」って表現がホント神ってますね。
わたしは衰退しつつある産業の労働者だ、と言うこともできる。ポルノグラフィーの寿命はよくもって今世紀一杯くらいだろう。
この「ポルノグラフィー」って明らかに純文学のことですよね。
そうか。もうこの頃から文学は終わったって言われてたんですね。
一方、作家の古井由吉さんはこう言っておられます。
「長い歴史を見ていると、文学はどうも必要なもののようですよ。社会が行き詰まったときを境に、また文学への欲求が出てくると思う。文学の生命は、東西の歴史を見る限りかなり強い。その点で僕は楽観的です」
前世紀一杯はなんとか乗り切った文学ですが、はてさて、今世紀が終わる頃にはどうなっていることやら。乞うご期待!
わたしはプロットを考えようとすると頭が痛くなる。時代背景や登場人物の服の色や柄や値段を考えるのは面倒くさい。わたしの思いつく会話はあほくさいし、それに致命的なことだが、わたしにはリリシズムが完全に欠けているのだ。
それに、原稿用紙を見たら頭が痛くなる、と。
ストーリーとかキャラとか練ったってしょうがないんじゃない? ってことですね。
小説書こうとしたことある人はわかると思うんですけど、書いてると途中で、なんていうか、ばからしいというか、俺なにやってんだろう、ってフッと我に返ることあるんですよね。
その、ばからしい側面を鋭く突いて、バカにしてるんですね。ポルノグラフィーとか言って。
作家の筒井康隆は「小説とは何をどのように書いてもよい文章芸術の唯一のジャンルである」とおっしゃってます(『創作の極意と掟』講談社)。
この小説はまさにそれを体現していますね。
それから、先ほど「召使い」として名前だけでてきた「パパゲーノ」なる人物が登場します。
パパゲーノというと、オペラ『魔笛』に登場する鳥刺しの男ですね。
そして、「わたし」はパパゲーノと一緒に暮らしていると。
そのライフスタイルのいかがわしさが突き抜けてます。
にしても最後のラジオのくだり、ちょっと面白すぎますね。時事ネタほとんどわからんけど。
「ポルノグラフィーしか書けないからって泣くんじゃない。『偉大なポルノグラフィー』を書けばいいのさ。
プロットを考えるのが面倒くさくても、生活や思想や文体について考えられなくても、大丈夫なのだと。
ていうか、そんなの考えたってしょうがないじゃないかと。
そんなのにこだわってるヤツらなんかほっといて、わたしたちはわたしたちの『偉大なポルノグラフィー』を書こうぜ!ってことですね。う~ん。
グレートですよこいつはァ。
- 作者: 高橋源一郎,内田樹
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