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To Be or Not To Be - アルタッドに捧ぐ part3 「第三章」

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こんばんは。のび作の実弟味付け海苔です。前回まではテンションに任せてノリノリで書いていた俺でした。

でも今回ばかりは内容が内容だけに、昨日みたいにふざけようものなら、ネット界に何億人とひしめくマジメ系モラリストの心無いバッシングに晒されること必至です。

というわけで、今回は全身全霊をもって、あくまで粛々と実況を進めていくことにしたいと思います。

安心してください。

ゴーストライターではありません。

それでは、三章です。パチパチ。

アルタッドに捧ぐ

アルタッドに捧ぐ

夏の終わりごろに差し掛かったところで、アルタッドは一段と著しい成長をみせます。ご飯をモリモリ食べて、バリバリ脱皮して、長時間ぐっすり眠る。

これで大きくならなきゃウソですね。

そんな折、本間のアルバイト先の部署が解体され、解雇されてしまう。

ますます暇になった本間は、ようやく重い腰を上げて大学院試験に向けて勉強を始めます。

本間が勉強をしているときも、アルタッドは机の上を動き回ったり、フランス語の辞書を齧ったりと忙しない様子。

人によっては、気が散ったり煩わしく思ったりするところかもしれませんね。

ところが本間は、その方がかえって机に向かう苦痛が和らぐというのです。

この点にかんしては俺も多分本間と同じだと思います。

一人で机に向かってる時の孤独感って、筆舌に尽くしがたいものがありますよね。特に夜。

でも、本間にはアルタッドがいるので寂しくありません。

本間はアルタッドの背中をさすりながら、「ほら、朝ご飯だよ」と声をかけ、給餌にとりかかった。

本間はそんなアルタッドを成長を、真心こめてサポートします。

脱皮しやすいように温浴させてやったり、来たる冬に向けて給餌に気を遣ったり。

アロポポルの表皮にナイフで傷をつけてた夜以来、本間はその償いをするかのように、熱心にアルタッドの世話を焼くようになっていた。

本間をそうさせているのは、前章で犯してしまった罪に対する自責の念なんですね。なんとも切ない。

と、そんなある日のこと、モイパラシアの物語の原稿が、机の下から見つかりました。

モイパラシアの腕を埋葬したときに全部使ったのかと思ってましたが、そうじゃなかったんですね。

モイパラシアは老婆に聞いた。

「どうして、今回の戦には参加しちゃだめなの?」

「みんな死んでしまうからさ」

(中略)

モイパラシアは尋ねた。

「ねえ、なぜ僕は生きていかなければいけないの?」

老婆は答えた。

「それはおまえには知る必要のないことさ、モイパラシア」

本間は没原稿を読み、この場面の着想のもととなった自分の体験を思い出します。

それは、本間が生まれて初めて死を意識したとき、自分自身に投げかけた問いだったと。

突然、少年は、みんないずれ死んでしまうのだと思った。百年も経てば園庭を駆ける男の子たちも、ブランコで揺れている女の子たちも、みんなこの地上からいなくなってしまうのだと、ふと考えた。なぜかは分からないが、光の降り注ぐ春の午後に、少年はそう思ったのである。

それは実に、幼稚園児の頃の体験だったというのです。

第一印象として、早いな、と思いました。

でもちょっと振り返ってみると、俺も幼稚園児の頃にはもう死を意識していたな、ということが思い出されたんですね。

part1の「本日の名言」で書いたことですが、俺は、夜眠らずに朝を迎えたら死ぬものだと、なぜか信じていました。

それは俺が四、五歳の頃のことです。

案外みんなそんなものなのかもしれませんね。どう思われますか?

本間は、自分が今暮らしている家の住人であった祖父がどのようにして死んでいったのか、ということに思いを馳せます。

そうしたことから、死についての漠然とした思索にふける本間。

「書くことは死に抗おうとする行為なのだろうか。それとも死に向かう運動に他ならないのだろうか。(中略)歓喜も恍惚も、所詮は死への憧憬のあらわれに過ぎないのだろうか。俺は、書くという行為は天上的なものを引き摺り下ろそうとする行為に過ぎないと考えていたが、本当は、書くという行為、物語を紡ぐという行為は、天上的なものの先にある死に向かってひた走ることに他ならないかもしれない」

いささか観念的な話になってきましたね。

生きるために書くのか、死ぬために書くのか。

そういえば、第一章にこんな記述があったことを思い出しました。

水を飲めば飲むほどに考えることは透明になっていき、それだけいっそう、自分以外の何かが語りだす瞬間が生じやすくなると考えていたのである。

この「自分以外の何か」と「天上的なもの」というのはイコールと考えてよさそうです。

ちょっと抽象的な場面なので自分なりにまとめてみました。

もしかするとちがう解釈をなさった方もいらっしゃるかもしれませんが、参考までに。

  1. 当初は、自分の人生を価値あるものにするために芸術を極めようとしていた。

  2. シャーマンのように「自分以外の何か」を降ろすことでそれを達成しようとして、 そのために罪を犯しさえした。

  3. しかしここへきて、価値あるものにしようとしていた人生そのものが、あまりにも儚いものだったということを思い出してしまった。

  4. その儚さの前では、「生きる」という働きかけなど、その先に待ち受ける死によって瞬く間に吸収されてしまうように思われる。

  5. そうであるならば、自分の働きかけなど、ただの「死に向かう運動」だといっても過言ではないのではないか。

死ついてどう考えるべきか。これは、いつの世にも最も切実な問題のひとつといえるのではないでしょうか。

このような問い・悩みに対して、最も即効性の期待できる解決策が宗教です。(俺は祖父の代から三代続く生粋のクリスチャンで、大学でも牧師になるための勉強していました。なれなかったけど)

日本人作家では、遠藤周作や三浦綾子などが、クリスチャンとしての視座から小説を書いています。

ただ弱点として、宗教って、それを信仰していない人にとっては影響力を持たないんですよね(当たり前だけど)。

でも、安心してください。日本文学カッコイイ。

日本で二人目のノーベル賞作家である大江健三郎は、「宗教なき救済」をテーマとしていくつかの小説を書いていらっしゃいます。

マジで悩んでいて、もうどうしようもないって方がもしいらっしゃったら、大江健三郎を読んでみてください。

純文学って、こういう切実なことを考える際のひとつのヒントになるんだと俺は思っています。

秋も深まっていくなか、本間の抱えていた書くことに関する不安は次第に和らいでいった。書くことを完全に断念したわけではなかったが、彼は文章を書くことのない生活に羨望を覚えていたのである。

本間は小説を書くことの意味を見失い、自分の人生の中で最も快かった日々――一年半前のギリシャ旅行――の回想を始めます。

その旅行中「アルタッドが一緒にいてくれたら」という空想を展開していくんですね。

俺は、アルタッドが光を浴びるときのように生きてみたいのだ。文章を書く必要など感じることなく、ただそこにあるものを享受するような生き方。

本間は、文章を書けない存在であるアルタッドに憧れます。

そうすることで、文章を書くという行為に関連付けられてしまった死への不安から解放されたかったということでしょう。

本日の名言

モイパラシアが老婆によって生かされている理由を考えることは、自分がこの世に甘んじている理由を考えることに等しく、モイパラシアの死について考えることは、自分の死について考えることに等しいように思われた。

日本文学界に限って見ても、芥川龍之介や太宰治や佐藤泰志など、多くの作家が自殺によって生涯を終えました。しかし、彼らの文学によって死への憧憬から解放された人も少なからずいます。何を隠そう、俺もその一人です。このことについてどう考えたらいいのでしょうか。

アルタッドに捧ぐ

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