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いざ生きめやも - アルタッドに捧ぐ part 4 「第四章」

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こんばんは。のび作の実弟の味付け海苔です。

依然キャラを模索中であります。

さて、『アルタッドに捧ぐ』の実況は、これで最終回となります。

手探りでやってきましたが、俺のブレブレのキャラにここまで付き合ってくださったすべての人に感謝です。

それでは、第四章です。パチパチ。

part 1 はこちら

part 3 はこちら

十二月も半ばを過ぎた頃のある夜、本間の家には亜希がきていた。亜季は台所でココアを淹れていて、本間はソファに横になり、当時のことを振り返っていた。

仲良きことは美しきかな。いいなあ。

どうでもいい会話だけど、このどうでもいい会話のどうでもよさが絶妙にどうでもいいですね。

ホントに、どうして別れたんだろう。

あー、でもやっぱり知りたくないかも。ご想像におまかせされておきたいかも。

まあ、仮になにかしらの行き違いとかがあったとしても、夫婦喧嘩は犬も食わぬって言うし。

アルタッドだってきっと食わないであろう。

あと恋人じゃなくて〈元〉恋人っていう関係性がいい。

「恋人」っていう言葉が持っている雰囲気によって、二人の関係のオリジナリティが損なわれることを防いでいるというか。

友達とか恋人とか夫婦とかっていう既成概念から自由な、「本間と亜季の関係」としか言いようのない関係というか。

はたから見たら恋人とほぼ同じようなんだけど、「元恋人」っていう断りをいれることで一定の距離感が生まれています。

これが恋人の設定だったら、仮に内容がまったく同じでも、受ける印象はぜんぜん違ったんじゃないかな。

もしそうだったら、ただの陳腐な恋愛描写になってたかもしれないですね。

個人的に、今まで接してきたフィクションの中でいちばんちょうどいい距離感かも。

アルタッドの口は半開きのままで、本気で威嚇するときの迫力とは程遠い、どこかユーモラスな顔つきが維持されていた。亜希は、これ以上接近すればアルタッドは本当に威嚇し始めるだろうと思われる、そのぎりぎりの位置で立ち止まった。亜季とアルタッド、両者はまるで同じ戸惑いを共有しているかのようだった。

亜希とアルタッドの対面のシーン。

こういう時にぎりぎりのラインで立ち止まれる亜希ちゃんがステキです。

人間関係でも距離感って難しいですもんね。

今よりも関係を深めようと思ったら、ブチギレられる直前のラインまで踏み込む必要があるんじゃないかな。

むかし聞いた話だと、幸福のためにいちばん重要な要素って人間関係なんですって。

戸惑いながらでも、できるだけ多くの人と良好な関係を築いていけたらいいですよね。

と、ここで半ば唐突に、現在の本間のスタンスの説明が挿入されています。

歓喜によって上り詰めた先に、死が口を開けて待っていたとしても、あるいは歓喜そのものが死への跳躍に転ずるのだとしても、それは彼にとって決して絶望的なことではなかった。彼は、文字を書くことなど考えられないような忘我、至福、恍惚、それらの極点に至れるのならば、幸いだと考えていたのである。それは、我を忘れたくて仕方がない、死を恐れない、あるいはモイパラシアの死を顧みない、といったような心境とは似て非なるものであり、到達できないことを知りながらも接近を夢見続けるような、言わば、積極的諦念とでも呼ぶべき心境であった。

あれ? おかしいですね。

第三章が終わった時点での心境とはくるっと180度変わったように見えます。

この二三か月の間になにか契機となる出来事があったのでしょうか。

しかし、そうしたことについての記述は見当たりません。

これはいったいどういうことなのでしょう。

ここでふと、堀辰雄の小説『風立ちぬ』のことを思い出しました。

このタイトルは、フランスを代表する詩人であるポール・ヴァレリーの詩の一節「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」を訳したものです。

直訳すると「風が起きた、生きることを試みねばならない」となります。

promontory.cocolog-nifty.com

堀越二郎の生涯を絡めたジブリの映画では、キャッチコピーが『生きねば』となっていましたね。

堀はこれを「風立ちぬ、いざ生きめやも(生きるのかなあ。いや、生きないよなあ)」と少しネガティブなニュアンスを含めて訳しています。

ああ、みなさん! これぞまさに積極的諦念ではありませんか!!

最愛の奥さんを亡くすという経験を経たのちでも、一陣の風が立ったそのとき、なぜかはよくわからないけれど「いざ生きめやも」と思った、と。

人間というものは、たとえどん底に沈んでいたとしても、ちょっと風が立ったくらいのなんでもないことで「いざ生きめやも」と思えることがあるのだということですね。

そう言えば、本間は作中でフランス語の勉強をしていましたね。

きっと念頭には、この詩のことがあったに違いないと思います。

本間の心にも、フッと一陣の風が立ったということなのかもしれませんね。

さて、少し飛んで、新年を迎えるころのことです。

雪をざくざく鳴らしながら歩き、彼は石楠花の木の前で膝を突いた。彼は、小さな石を覆い隠している雪を、両手で少しずつ丁寧に払っていった。やがて、モイパラシアの墓石が雪の下から姿を現した。石の下に埋まっているのは少年の左腕だけであったが、彼は時々その墓前で手を合わせていたのである。

本間はモイパラシアの墓を前にして、まるで独白のように、いろいろなことを次々と語っていきます。

結局モイパラシアの死についてはなにも分からないままだということ。

時には自分も死んでしまいたいと思うことがあり、どんなに駆けずり回っても牢獄の壁を破るには至らないということ。

自分の背後にも見えない作者がいて、自分がそのコントロール下にあるような気がするということ。

それでも自分は、アルタッドとアロポポルのために生きるつもりであるということ・・・・・・。

そして最後に、本間はこう結びます。

いつかこの先、きみの死について書くことだってあるかもしれない。きみの死を、話を展開させるために利用することだってあるかもしれない。そのときは、どうか俺を許してほしい。きみが安らかに眠っていることを祈る。

芥川賞作家の三田誠広さんが、著書『ワセダ大学小説教室 天気の好い日は小説を書こう』のなかで次のように言ってらっしゃいました。

教室では、技術的なことは教えられるのですが、肝心のことは、教えられません。その肝心なことは何かというと、ようするに、何を書くかということです。これについては、こんな言い方しかできません。自分にとってもっとも切実なテーマを誠実に書く。これが出発点です。

そうであるならば、本間はモイパラシアの死を扱わざるを得ませんね。

そこには当然、それ相応の責任が伴ってくることでしょう。

その責任に見合うだけの誠実さをもって臨む覚悟がなければ、小説を書く資格はないのだと。

そして、本間がモイパラシアに対していかに誠実に向き合っているのか、ここまで読んできた俺たちはよく知っているはずです。

三月初旬のある夕方、大学院試験の合格祝いということで亜季が本間の家を訪れた。

ああ、大学院試験合格したんだね。本間くんおめでとう。

シャンパンを飲み、チーズケーキを食べる。隣には亜希ちゃん。

この幸せ者め! お前なんかアルタッドに喰われてしまえ!!

なんかこの場面、小坂明子の『あなた』の歌詞を彷彿とさせますね。

「真っ赤な~バラ(シャンパン)と~ 白い~パンジ~(チーズケーキ) 子犬(アルタッド)の~ よこには~ あな~た~♪」

「これ、前に見たいって言ってたやつ。昔描いた絵だよ」

ケーキを食べ終わった亜希が、そう言って鞄のなかから一枚の絵を取り出した。

ああ、亜希ちゃんは絵を描くんですね。

芸術家同士、本間とは気が合うのかもしれません。

それからまた、とりとめのない会話が続きます。いいなあ、こういうの。

突然、亜希は何かを思いついたかのように立ち上がり、鞄のなかを漁ると、何本かのペンを取り出した。

「よし、決めた。今日は点描だ」

そう言って亜希は本間にペンを手渡した。

「なんでそうなるのさ。点描なんてやったことないよ」

「さっき、きみの絵のように書けたらな、って言ったでしょ」

「言った」

「今日は私と絵を描いて、明日からは自分の小説を書く」

「信じ難いほどにいいひとだな」

ようやっと気づいたか、本間よ!

そうして、二人は一緒にアルタッドの絵を描きはじめます。

二人はすでに言葉を交わしていなかった。それぞれの打つ点、そして画用紙を通して伝わってくる微かな振動によって、互いに意思の疎通が図れていたのである。

俺は将棋を指すのですが、格言に「棋は対話なり」という言葉があります。

強い人同士でやると、駒を動かしているだけで、なんとなく相手の考えていることが分かる瞬間があったりします(俺はむちゃくちゃ強いです)。

将棋でなくても、ちょっとしたアイコンタクトで相手の言わんとしていることがわかったりした経験って、誰しもあると思います。

そういう非言語コミュニケーションが成立した瞬間って、なんだか無性に嬉しくなっちゃいますよね。

ましてやその相手が好きな人だったりした日には、もう最高でしょう。

さて、絵がだんだんと完成に近づいていきます。

アロポポルのてっぺんに咲いた花に、アルタッドが鶏冠を擦りつけている場面の絵です。

成長速度は極めて速いものの、アロポポルが花を咲かせるまでには十年から数十年の時を要するため、長くとも十年ほどしか生きられないアルタッドは、花を見ることなく死んでしまう可能性の方が高いのである。

叶う望みがほぼ無いことを承知していながらも、夢のヴィジョンを画用紙の上に固定するべく、ひとつまたひとつと点を打っていく本間。

「積極的諦念」ですね。

ところで、これってなんだか小説を書く行為と似ているような気がしませんか?

叶わなかった夢や、叶う見込みのない夢を、叶ったものとして描いていく。

そうして出来上がった作品は作り物かもしれない。

それでもある次元においては、確かに本当のことなんだと言うことができる。

アルタッドとアロポポルの存在がそれを証明しています。

これはみんなにとって、まぎれもない希望ですね。

みなさんにとって文学が、心のなかに立つ一陣の風でありますように!

作品が完成する瞬間とは不思議なもので、ある点を打ったとき、本間は、あとひとつでも多く点を打ったら嘘をついたことになってしまうと思い、点を打つのをぴたりとやめてしまったのであるが、するとその瞬間、亜希も彼の判断に同意するかのようにして、点を打つのをぴたりとやめてしまったのである。

以前、テレビの某バラエティ番組で見た記憶があるのですが、嵐の相葉雅紀さんがゲストのおじさん方に「ジーンズを洗うタイミングがわからない」という相談をされていました。

するとゲストのひとりが言いました。

「大丈夫だ。ジーンズの方から『洗ってくれ!』って言うから」

短歌や俳句と違って、小説や現代詩はいつ書き終えるかの判断が作者の側にゆだねられています。

「この一行で終わりだ!」と作品の側から言ってくれるという体験。

これが本間の言うところの「自分ならざる者が語りだす瞬間」なのかもしれませんね。

アルタッドに捧ぐ

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